アントニオ・デ・トーレスを知ってはいても、実際にその音を聞いた人はあまりいないだろう。
ましてや、実際に弾いたことのある人ということになれば極々少数ということになろう。
べつにトーレスを知らないからと言って不都合があるわけではない。
しかし、フリアン・アルカスやタレガがトーレスを弾いてクラシックギターの世界が大きく拡がっていったことは間違いなく、その後のクラシックギターの進展においてもトーレスの影響は垣間見られる。
例えば20世紀において、アンドレス・セゴビアがバッハのシャコンヌを演奏して世界に衝撃を与えたが、それはドイツのハウザー一世の楽器によるものだった。そのハウザー一世というのは、トーレスの力木配置をほとんどそのまま採用した楽器なのである。
わたしがトーレスに出会ったのは茨城のギター文化館においてである。
スペインから帰国して、それなりに動いてみたもののうまくいかず、関係者に相談したところ、細川鋼一氏(ギター文化館初代館長、コレクター)を紹介された。(ただ、彼とはマドリーのアルカンヘル工房で面識はあった。)
設立間もないギター文化館に彼の車で訪ねたことが懐かしく思い出される。
以来、折に触れて岐阜から茨城を訪ねることとなる。
ある日のこと、細川氏が弦長600ミリほどの小ぶりな楽器を
渡した。彼は何も言わなかったが、それがトーレスだった。
弾いてみると、わずかに”チンッ”と鳴る。
古い楽器であることはすぐさま分かったが、正直これは少々きついなというのが正直な感想だった。
別の日にその楽器を彼が弾いていた。
こうした年代の楽器を聞くのはおそらくこの時が初めてだったろう。現代の楽器とは異なり何の抵抗もなくそのまま音が出てくる感じ。
トーレスの場合、小ぶりな楽器であるにもかかわらず、低周波の響きが匂い立つように拡がる。
”ドスン!”という重量感のある低音を持つ楽器は数少ないが存在する。しかし、トーレスの場合、それが前方に拡がっていく。たしかにこんなギターは後にも先にもトーレス以外存在しなかった。