PA奏法という新奏法

 サビーカスの動画をずっと見ているうちに気づいてきたことがあった。

サビーカスの人差し指は見えるのだが、薬指は見えない。
これはセゴビアとは正反対だ。
私はその時、サビーカスに触発されてトレモロの練習をせっせとしていた。
その折に薬指は親指側に動かすといいのではと思っていた。
じつはこうした思いは以前からあった。
わたしは、それまでセゴビアの形とタレガ的なスクウェアな形を行ったり来たりしていた。
わたしが考えている薬指のタッチを行うと、タレガ以来の伝統的奏法の形を根本的に壊すことになる。
最近の方々にはピンと来ないかもしれないが、これは伝統的奏法に根差した美意識を捨て去ることになる。さすがにそれはできないでいた。
しかし、サビーカスの動画を繰り返し見ているうちに、右手の形と動きがイメージできてきた。サビーカスが肩を押してくれた。
まず、薬指(a)を決める。
aの指は小指側にポイントがある。必然的に右手は小指側にわずかに傾く。
その状態で親指(p)を決める。
ようは親指と薬指を決めることを最優先する。
人差し指、中指はなんとかなるだろうと考えた。

感触は上々だった。
この時点でわたしは細川さん(ギター文化館初代館長)に電話を入れた。
彼はすぐにこちらの真意を汲み取り「そうだ!それだ、それだ!」と興奮気味に反応してくれた。
それからふたりで話して、この奏法に名前を付けようということになった。
話し合って、PA奏法と名付けることとした。

この新奏法、PA奏法を弾き進めていくと分かってきたことがある。
a,m,iを同じ感覚で弾くことができ、タッチで悩まなくなった、
総じて楽であり、指が動かしやすい。
i,mは予想通り何とかなった。それどころか指を逃がしやすくなり自由度が上がった。

人間の腕は体の両側にある。
そして、手のひらは体の内側を向く。体の真ん中でモノを保持するため。
したがって、指先は体の中心に向くのが自然。
薬指と小指は、人差し指と中指とは違い、手の中心に向かって曲がる。モノをつかむため。
モノを握る要領で指を動かすことが自然。
ではなぜ、アルカスやタレガはこのようにしなかったのか?
おそらく具体的に曲を弾く場合、i,mの運動量が一番多いため、i,mを中心にフォームができたのではないだろうか。エレキベースの奏者の右手が実に奇麗なのは、彼らはi,mしか使わないからだ。
サビーカスはフラメンコ奏者であり、ラスゲアード等あらゆる体制を取らなければならなかった。結果、恣意的なフォームに陥ることはなかった。

今回つくづく実感したのは、既成概念や偏見を取り去ることは極めて困難なことだということ。伝統的奏法を壊してはいけないという強迫観念を取り去ることはなかなかにできなかった。


サビーカス礼賛

 





個人的に2022年の大きな出来事はサビーカスを知ったことだ。

アラビアン・ダンスがきっかけだったと思う。
この曲はいかにもといった感じで、ちょっと俗っぽくもあるが懐かしさも感じる。
この曲に抵抗感を覚えなくなったのは年のせいかもしれない。
とはいえ、この曲を弾きこなすのは容易なことでないことは想像に難くない。
それをサビーカスは正確無比に弾き進んで行く。
テンポを刻む確かな推進力が並大抵の力量ではないことを物語っている。
右手の軽くしなやかな指の動きは、わたしが夢想していたそのものだった。
以来、彼の動画を探し貪るように見た。

「今、サビーカスにはまってる人間はそういないぞ。」そう友人に笑われた。
じつは、わたしはフラメンコが苦手だったのだ。
元来、民族音楽はダメで、フラメンコも、あのアクというか泥臭さが嫌だった。
実際にグラナダとマドリーに住み、接する機会もあったし、フラメンキスタの友人もいたのに。
だが、サビーカスからフラメンコのアクはいっさい感じられない。
泥臭さとは無縁の演奏で、ラスゲアードですら丁寧。
丁寧で正確無比という点ではクラシックの奏者以上かもしれない。
そして、なんといっても素晴らしいのは動きを含めた右手の美しさである。(とは言うものの左手も相当に凄いのだが)
美しさを感じる右手を持つギタリストは残念ながら極々少数なのだ。


わたしがクラシックギターと関わって以来、私の中でのギタリストNo.1はずっとアンドレス・セゴビアであり、これは変わらないのかもしれないと思っていた。
2022年、No.1の座はサビーカスに代わった。(あくまで個人的ランキングだよ、笑)
少なくとも、ギターを弾くという点において、サビーカスはセゴビアを凌駕している。
サビーカスが終生を通じてあのテクニックを維持したのに対し、晩年のセゴビアのテクニックの衰えは顕著である。

そうして、サビーカスの動画を見続けるうちに、ある重要な発見をすることになる。




トーレスとセゴビア

 トーレスを何と言って説明したらいいのだろうか?
ずっと考えあぐねていた。
一番分かりやすいのは、”トーレスは19世紀のダブルトップ”という表現だ。
これには個人的に抵抗感があった。
しかし、言い切ってしまうとその通りで論理的破綻も来たさない。
トーレスで特筆すべき点は、その音響的ポテンシャルである。
なんのストレスもなく音が出てくる。
遠達生に優れ、ステージで栄える。
しかし、古い楽器だから仕方ない部分もあるが、ひとつひとつの音の粒が脆弱である感は否めず、音の密度も高いというわけではない。
トーレスの真骨頂で音の持続は長い。
これはひょっとすると皆が望んでいたことで、撥弦楽器でそれを実現したことは大したものだが、実現してしまうと、’あれ、これって撥弦楽器なの?’という疑問が湧き出てくる。

同じ疑問を演奏にも感じることがある。
アンドレス・セゴビアと言えば、史上最も優れた偉大なギタリストと言われたりする。
実際そうなのかもしれない。
しかし、アストゥーリアスをなぜあのように”ボローン”と弾くのだろう?
”ジャンッ!”と弾き切ってしまえばいいではないか、それがギターというものだ。
アランフェス協奏曲を彼は絶対に弾かない。
あれはレヒーノに捧げられた曲だからというのが真の理由ではないだろう。
細かな速いパッセージとラスゲアードを駆使している点が嫌なのだろう。
しかし、それは撥弦楽器であるギターの持ち味であり醍醐味である。
彼がフラメンコ的、スペイン的世界にトラウマを抱えていることは巷間伝えられてる。
彼は自らを純然たるクラシックの奏者であることを宣言し、ロマン主義的世界に向かった。

セゴビアはトーレスを認めていない。
理由は間違いなくトーレスはタレガの愛器だからである。
おそらく、タレガ直系の弟子から教えを受けたレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサが世間的にはタレガの後継となるのかもしれない。
しかし、わたしはセゴビアこそがタレガの後継者であり、彼に最も合うギターはトーレスであると思う。