PA奏法から再びサビーカスへ、そしてドリュー・ヘンダーソンの登場

 
ずっと脱力が課題だった。
時間があれば脱力を念頭にギターを弾いた。
脱力さえできていれば音が悪くとも、なんなら音が出なくてもかまわないぐらいの気持ちで弾き続けた。

そうとう苦労した。
指に少しでも緊張を覚えたらダメ。
指が疲れるようではダメ。
ふにゃふにゃな指をイメージした。
苦労したがなんとかできるようになった。
できてしまえば指先をコチョコチョ動かすだけで充分ギターは鳴らせることが分かった。
ただし、力は入ってないので指先がちゃんと弦を噛んでないと音は出ない。


これで景色が変わった。
ギターで音を出す感触とは、今まで想像してたものとはまるで異なっていた。
音はクリアになりきちんと確実に鳴るようになった。
これは分からないはず、伝わらないはずだ。
力が抜けた柔らかくしなやかな指先でないとタッチの真髄は見えなかったのだ。
タガが外れたように指が動くようにもなる。

弦が滑らかに爪を滑る感触、爪で思うがままに弦を遊ばせる感覚、指先が弦に乗って第二関節に弦の圧力を軽く感じる感覚、これらを覚えるとギターを弾くのが病みつきになる。
ピアニストのような繊細な指の動きはギターにおいても可能だし、ギターこそそのように弾くべきだ。

そして分かった。
この指先の自由な繊細な動きを可能とするために全てを準備すればいい。
PとAが無理なく動かせることは大事だが、PとAに意識を集中することもまた恣意的な動きにつながる。
普通にポンっと手を置いて弾けばいい。
そうすれば手が親指側に傾くことはなく、自然と薬指は内側に向いた形になる。

右手の理想的なフォームはカバジェーロだと思っていたが、このタッチを覚えたらまたサビーカスが現れてきた。フォームなどどうでもいいのだ。
弦と指先(爪)の関係性を確保することが重要であり、手の形、指(爪)の状態などは人それぞれであろうから、フォームは人によって多少異なる。


そんなことを考えてる折に Drew Henderson というギタリストを見つけた。
驚愕した。
全てにおいて完成してる。
構えた姿が極めて自然な落ち着きを醸し出している。こんなことを感じるギタリストはセゴビア以来だ。
テクニックは完璧であり、演奏に洗練さがある。
あそこまで美しいトレモロは聴いたことがない。
各指が完全に脱力して自在に動かせるから成せる技。
本物が登場した。


面白くなってきた。
ギターは確実に新しいステージに入ってる。



ホルヘ・カバジェーロ登場


Jorge caballero




 PA奏法を思いついてから、この奏法で弾いている奏者がいるものか探してみた。

個人的にびっくりしたのは、最初にヒットしたのがなんと日本人ギタリストの猪居亜美さんだったこと。
次に目についたのがパオラ・エルモシン(Paola hermosin)、アンダルシア訛りバリバリのスペイン女性。
共に女性でフォークギターも弾く。
だから、伝統奏法の呪縛に囚われることがなかったのかもしれない。


ただ、わたしが思い描くPA奏法とは微妙に異なる。
ところがなんと、ピタリと一致する奏者がいた!
ホルヘ・カバジェーロ(Jorg Caballero)である。

じつは数年前、わたしと細川さんは次の時代を担う最有力候補は
ジェリル・レフィック・カヤ(Celir Refik Kaya)だと考えていた。
彼の演奏スタイルは端正な正統派で、文句のつけようがなかった。


しかし、ホルヘ・カバジェーロの登場が全てを一掃した。
彼の弾く Villa Lobos etude 1 を見て聴いて欲しい。
この曲はセゴビアも弾いていて動画も見ることができる。
セゴビアはこの曲をキッチリ見事に仕上げている。
セゴビアのm,aの動きは完璧だと思っていた。
しかし、カバジェーロを見た後ではセゴビアのm,aの動きは訓練の賜物であることが分かる。
カバジェーロのm,aの動きは、言ってみれば生まれつき動くのだと言わんばかりの凄まじさである。


同じことがトレモロについても言える。
わたしの知ってるギタリストが、
「今アランブラを弾けるかと言われれば弾けない。
 しかし、一週間もあれば弾いてみせる。」と言っていた。
同様の事を超有名ギタリストも言っていることを人づてに知った。
ギタリストにとってトレモロというのはけっこう鬼門であるようだ。
わたしの大好きなギタリストにノラ・ブッシュマン(Nora Buschmann)がいて、
彼女が Campanas del Alba を弾いている。
彼女はこの曲を完璧に弾いているが、彼女のトレモロ時の薬指の動きにカバジェーロのような力強さ、自然さは感じられない。


マリア・エステル・グスマン(Maria Esther Guzman)の右手は変則的で、正直、個人的には疑問に思っていた。しかし、彼女のあの右手のフォームにも意味はあったのだ。
彼女が Recuerdos de la Alhambra を好んで弾いていたのはトレモロに自信があったからにちがいない。



数年前にはカヤとかノラのような正統派のギタリストがいなくなってきていることを嘆いていた。今では時代に取り残されるところだったと安堵している。

理解されやすいようにPA奏法と名付けたが、カバジェーロ自身がカバジェーロ奏法とでも名打って、この奏法を世界に拡げて欲しいのだが、残念なことに、彼には自分が特別な画期的なことをしているという自覚はないようだ。これは本当に歯がゆい限りである。

なぜならば、この奏法が普及すれば、クラシック奏者がテクニックではなくその音楽で評価される時代が必ずやって来ると思うからだ。








アルカンヘル





アルカンヘルを久方ぶりに弾いた。


じつはわたしはアルカンヘルをあまり弾いていない。
機会はいくらでもあった。
オーナーの細川さんからも見るべきだと弾くことを勧められていた。
しかし、弾けば必ず引っ張られる。
自分のイメージで楽器を作りたいと考え、ずっと固辞していた。

弾いてみて感じたのは輪郭のはっきりとした緻密さ。
繊細ではなく緻密。
以前、岩のような圧倒的な剛性感に感嘆したことを覚えているが、なるほどこのように進化していた。
細部まで緻密だから正確に絵がかけると言ったら分かってもらえるだろうか?
緻密ではあるけれど華奢ではない。これは間違いなくホールで通る音。
これだと音楽の求めるあらゆる表現が可能になる。
その無限のポテンシャルを再確認した。
トーレスは夢見るような魅力ある音色だが、このような多彩な表現力・正確さは持っていない。

わたしはアルカンヘルはトーレスの生まれ変わりではないかと思ったことがある。
トーレスの風貌が少し神経質である点もアルカンヘルと重なる。
そして、なにより構造である。
ギターで何より重要なのは中央の軸である。
中央の軸をいかに生成するか、これが製作の最優先の課題である。
しかし、この中央の軸の生成に焦点を絞った製作家は、わたしの知り得る限りトーレスとアルカンヘルだけなのだ。(ギターの木目は縦に走っている。したがって振動は縦に伝搬される。この縦の剛性、とりわけ中央の縦剛性が何より重要となる。)

アルカンへルは、ギターは撥弦楽器であるという基本に忠実である。
ギターの音の源泉は衝撃音である。それには固さが基本になくてはならない。
トーレスはロマン主義の夢見るような魅力溢るる楽器だが、アルカンへルはギターだ。
ザ・ギターである。ただ、少しスペイン風味を効かしてある。

細川氏の助言により、このスペイン風味を廃した楽器を作ることができた。
わたしが躊躇せずアルカンヘルを手に取ることができたのは、それが理由である。
最後の最後に最高の助言をしていただいた細川鋼一氏には感謝しかない。
あちらで思うがままに音楽を奏でて欲しい!

                                                                    
                                                                              Muchisimas Gracias Eh!